I've got A New Way of Walking, Talking , Attitude, JESUS is Taking me Higher.
                  
「神の栄光と祝福を受け継ぐものとなるために」 

2 コリント 4:6-7 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。
7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

私たち主を信じるものは神の栄光の知識を土の器という私たちの体の中にいただいています。しかしながら、4章18節にあるように「目にみえるものではなく、見えないものにこそ目を留めなくてくてはなりません。」何故ならば「あなたがたの宝のあるところにあなたがたの心もあるからです。」マタイ6章21節 といわれるように私たちは状況や環境に目を留めて不信仰になるのではなく、今は目には見えないけれど神の御言葉と神の栄光に目を留めるものとならなくてはならないのです。
創世記には目に見えるものに目を留めるものと、目には見えないけれども見えないものに目を留めて神の祝福を受けた二人の兄弟について記されている個所があります。

創世記25章26-34節 彼女の出産の日がきたとき、胎内にはふたごがあった。 25 さきに出たのは赤くて全身毛ごろものようであった。それで名をエサウと名づけた。 26 その後に弟が出た。その手はエサウのかかとをつかんでいた。それで名をヤコブと名づけた。リベカが彼らを産んだ時、イサクは六十歳であった。27 さてその子らは成長し、エサウは巧みな狩猟者となり、野の人となったが、ヤコブは穏やかな人で、天幕に住んでいた。28 イサクは、しかの肉が好きだったので、エサウを愛したが、リベカはヤコブを愛した。29 ある日ヤコブが、あつものを煮ていた時、エサウは飢え疲れて野から帰ってきた。30 エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。
31 ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。 32 エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。 33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。 34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。

ヤコブは神の祝福である長子の権利を一杯の煮物で兄エサウから自分のものとしました。
エサウは空腹から目に見える豆の煮物で大切な長子の権利と引き換えてしまいました。
ヤコブは父の祝福も奪って兄エサウの怒りから逃れ、荒野で石を枕に寝なくてはなりませんでした。しかし、ヤコブが寝ていると神は目に見えない神の祝福をヤコブに夜の幻で見せられ神の祝福の約束を確かなものとしました。ここに夢と幻の啓示がどんなに大切であるか私たちは見ることができます。祝福をいただいたはずのヤコブは兄の怒りから逃れて叔父の家を目指し荒野で石を枕にしなければなりませんでした。しかし、このような状況に神はヤコブに目に見えないものに目をとめるという信仰の法則を教えられたのです。

創世記28章10-18 さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、 11 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。13 そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。14 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。 15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。 16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。 17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。

神の栄光を知る知識を輝かせてくださるのは主です。しかし主の栄光を知るためには、目に見えるののではなく、見えないものにこそ目を留めるものとなる必要があります。見えるものは一時的であり、見えないのものはいつまでも続くからです。私たちの心がどこにあるかによって神の栄光と祝福を受けるかが決まるのです。