I've got A New Way of Walking, Talking , Attitude, JESUS is Taking me Higher.
                  
 心の目が開かれるために 「バルテマイの目を開く」 ルカ18:35−43 

聖書は私たちにとって大事なことは何かを教えている。それは目が見えないものが見えるようになることです。その目とは肉の目ではなく心の目が見えるようになることなのです。

イザヤ 42:18-23「 耳しいよ、聞け。目しいよ、目を注いで見よ。19 だれか、わがしもべのほかに目しいがあるか。だれか、わがつかわす使者のような耳しいがあるか。だれか、わが献身者のような目しいがあるか。だれか、主のしもべのような目しいがあるか。20 彼は多くの事を見ても認めず、耳を開いても聞かない。21 主はおのれの義のために、その教を大いなるものとし、かつ光栄有るものとすることを喜ばれた。 22 ところが、この民はかすめられ、奪われて、みな穴の中に捕われ、獄屋の中に閉じこめられた。彼らはかすめられても助ける者がなく、物を奪われても「もどせ」と言う者もない。 23 あなたがたのうち、だれがこの事に耳を傾けるだろうか、だれが心をもちいて後のためにこれを聞くだろうか。」

ルカによる福音書 18:35-43 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていた。36 群衆が通り過ぎる音を耳にして、彼は何事があるのかと尋ねた。
37 ところが、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされたので、38 声をあげて、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と言った。
39 先頭に立つ人々が彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」。
40 そこでイエスは立ちどまって、その者を連れて来るように、とお命じになった。彼が近づいたとき、41 「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。
42 そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。
43 すると彼は、たちまち見えるようになった。そして神をあがめながらイエスに従って行った。これを見て、人々はみな神をさんびした。

イエス様が町を通られた時に盲人のバルテマイ(テマイの息子の意味)は、ダビデの子イエス様(メシヤ、救い主を意味する)と イエス様の名を叫び求め「私をあわれんでください」と叫び始めた。
大勢の人々は盲人バルテマイを黙らせようとしたが、ますますバルテマイは叫びつづけたのでイエス様は立ち止まられた。何故イエス様は立ち止まったのか?群集は大勢いたが叫んではいなかった。バルテマイだけが叫び始めた。群集は叫バルテマイを黙らせよ大勢でたしなめようとした。お前のようなものはイエス様にふさわしいものではない。自分を何だと思っているのかとたしなめたのだ。しかしイエス様は彼を呼んで来るように立ち止まられた。
呼ばれたバルテマイはマルコの福音書10:50では「そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。」とある。上着を脱ぎ捨ててとはなんだろうか。盲人の上着とは人々への哀れみをさそうマント?自分自身の惨めさをまとうマント?いずれにしても立派なものではない。この世の罪人、失敗者、ふさわしくない、落胆のマントではないか。
あなたはこのマントを着るときに、私は恥ずかしい者というコンプレックスを持つでしょう。しかし、主があなたを選び呼んでくださることを知らなくてはならない。
バルテマイとはテマイの息子の意味であると先に述べましたが、テマイとは、「高度に高く評価される者」の意味でこれは誇り高きものを示している。しかしその誇り高き者の息子は、惨めであわれな盲目のこじきにであった。しかし、彼は主イエスの名を叫び、主イエス様がお呼びになられた時に、そのコンプレックスのマントを脱ぎ捨てて主イエス様の所へきたのである。

人は誰も惨めなもの、失敗者、ふさわしくない者にはなりたくはない。しかし何かが人を失望や落胆、自分は神にふさわしくない者と思わせる時がある。しかし聖書はイエス様がそのような羊飼いのいないさまよっている羊のためにこの世に来られたと教えている。ここに救いがあるのである。
イエス様は言われました。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。(マタイによる福音書 5:3)人は、たとえ貧しいものであっても貧しいものであることを恥としないでイエス様の名を呼び求めることができるのである。何故ならば主は優しい方でありへりくだるものに恵みを与えられるからである。
使徒パウロも次のように言っている。」こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬこうではないか。(ヘブル 12:1)

私自身経験がある。物事が上手くいかなかったとき、みじめな自分がいる。失敗したと思っていなくても人々の目は失敗した者としてのレッテルを貼って見るようで、自分自身になんともいえない落胆という無力さが取り巻く。しかし私は聖書の次の御言葉に出合った。ヤコブ 1:9 「ヤコブへの手紙 1:9-10 低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。 10 また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。」何と言うことか、人は低くされている時こそ本当は高くされたことを喜べというのである。神の目は人の眼とは異なる。人は、「私は見えると言う」。しかし、「神は、耳があっても聞こえず、目があっても見えず。」と言う。人の目で自分を見てはならない。自分の目でも自分が惨めなものと見てはならないのだ。神があなたをどのように見ておられるかが大事なのだ。私はこの御言葉によって癒され、立ち上がることができた。 まさにイエス様の前に立ったバルテマイのようなものであった。

聖書の中である金持ちの青年は幼いときから戒めを守っている自分を自負し完全を求めて主の下に来たがその欠けたところ満たしたいならばと指摘されたときに去っていった。(マタイ 19:16以下)しかしこじきで盲人で貧しいバルテマイは彼のレッテルの上着を脱ぎ捨て、卑しい身分を恥じないでイエス様の下に来て癒され主に従っていった。私達は人に対しても、また自分に対しても神のように見る目をいただく必要がある。バルテマイは確かに高く評価される神の子供なのである。あなたのうちにある本当の価値ある人を神は知っておられます。あなたが主イエス様の名を呼び求めるならばあなた癒され、心の目が見えるようになりるのです。

                                    ハーベストタウンチャーチ
                                牧師 加島千秋