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ガンコばー天国へ行く 拝啓 親愛なる全地の造り主様、わが主イエスキリスト様へ 私たちが、日々恵みの中で生活でき、命あることを感謝いたします。 時として私たちは、神様の存在を忘れたり片隅に追いやってしまったりすることがあります。私たちが生まれる前から、地球は太陽の周りを回っていました。朝、日が昇ると命が躍動し、夜になると命に安らぎを与えてくださいます。でも私たちは「全て当たり前」と思っているのです。まことに申し訳なく思っています。 私には97歳になる祖母がおりました。すでに過去形になってしまいましたが・・・ 明治時代の生まれで、大正、昭和、平成と4つの年号を生きてきましたし戦争も体験してきました。貧しい家であったために学校にも行けずに、食べることに必死になって生きてきたと言っていました。この当時、私の祖母のような境遇の方は日本国中、たくさんおられたのかと思います。自由なる意思など与えられず、天皇のために、食べることのためにいきてきたのでした。そして祖母は自分の目で見たものしか受け入れませんでした。 私たちは、1984年に結婚しました。すると父が家を出ました。半年もしないうちに母も家を出ました。私は当時、東京で夢を抱いて妻とともに生活を始めていました。が、急転直下のごとく、私の状況は一変しました。私の頭の中は「まいったなー、まいったなー」と思いめぐるだけでした。私たちの結婚が引き金となりみんながばらばらになってしまったのでした。理由はいろいろとあったのでしょうが・・・自分の力ではどうにもならないことがたくさんあるんですね。 私たちは、祖母と一緒にいることを選びました。ですが毎日がとんでもなく大変でした。 毎日毎日が、「ののしりあい」の連続でした。 そして子供が生まれました。わたしの奥さんがイエスキリストを受け入れました。私は仕事に忙しく、家のことは「ほったらかし」でした。日曜日、妻は教会へ行きます。すると祖母は、私に非難と文句の連続です。 私の頭の中には「頑固ババアとキリスト馬鹿のおくさん、何とかしてください・・・神様」と、あったのです。しっかり神様にお願いしていたんですね・・・この後1997年に私も「キリスト馬鹿」になってしまったのですが・・・すると今度は、私、奥さん、子供、みんなが教会に行ってしまう訳です。家には「ガンコばー」が残るだけです。 もうすでに近所には同じくらいの歳の人はおりませんでした。話し相手も無くなりかなりさびしかったのかもしれませんでした。日曜日の教会に何度も誘いましたが、決して行きませんでした。でも私の奥さんが策をめぐらしました。ある日曜日の朝、「おばあちゃん、今日はみんなで、おすしとおそばを食べに行きましょう!」と誘ったのです。これには断る理由が無かったのか、OKしました。そして車に乗り込み出発しました。そしてついたところが、加島牧師先生のひきいる教会だったのでした。これには本人も「だまされた」と思ったに違いありません。この日、本人は静かに座っていました。そして加島牧師先生に祈っていただいたのでした。こうして私たちは、すしとおそばを食べに行きました。 こうしてドアーが開かれたのでした。 毎週、加島牧師が家を訪ねてくださるようになり、「ガンコばー」のための聖書の学びが始まりました。もう耳も結構とおくなっておりましたので耳元で大きな声を出して聞かせていました。教会に行くようになり、そして教会の後にはレストランにいく・・・と、言う構図が出来上がりました。ですが長くは続きませんでした。やはり歳でしたので歩くことが困難になっていたのです。加島牧師の聖書の学びは引き続きなされていました。 この日私と奥さんは礼拝から帰り、床で寝ているところの祖母をたたき起こすようにしてお越し車に乗せ、江戸川の土手沿いを飛ばしていました。祖母は「どこに行くのか、気持ち悪いから家に帰ってくれ」とか言っていました。私たちは、時間のことだけが心配でした。ついた所は小岩の教会でした。本人は何がなんだかわからないうちに着替えさせられて、ステージに上げられてみんなが見守る中で加島牧師先生から洗礼を授けてもらいました。受洗の前の怒りに満ちた「ガンコばー」はどこへ行ってしまったのか,洗礼式の後の「ガンコばー」は花束をもらい、みんなから祝福とお祝いの言葉をもらい「こんなす晴らし経験は生まれて初めて、ああっ、もったいない、もったいない」と言っていました。こうしてこうして「ガンコばー」は生まれ変わったのでした。 この後「ばー」と奥さんはほとんど毎日のようにデパートやレストランに出歩くようになりました。車椅子に乗ってあちこちと・・・「ののしりあい」もなくなりました。 洗礼を受けて3ヶ月ぐらいだったと思いますが、体の具合が悪くなり、本人は「いやだ」と言うのを、説得して病院に入院させました。12月の20日ごろだったと思います。 それから幾日か経って後、大変元気になりましたので、担当医に退院のことを伺いました。すると担当医が言うには「患者さんの検査の結果、血液の中身が空っぽなので、いきているのが、不思議なのです。だからいつ死んでもおかしくないので退院はできません」と言うことでした。「ばー」に会うと「速く家に帰りたいな、ここにいると何も食べられないし、飲めないし、食べ物はまずいし」と言うのでした。このとき私の母が付き添っていましたが、私は「何で食べたいもの、飲みたいものをあげないのか?」と聞きました。すると母は、「医者がだめだと言うから」とまじめに答えました。私は言いました。「明日死んでもおかしくないとわかっているのに『あれはだめこれはだめ』そんなこと言わずに隠れてでも飲み食いさせてやりなよ」といいました。そして『ばー、何かほしいものはあるか』とたずねると『サイダーが飲みたい』と言うのでした。そして買ってくるとそれをわしずかみにして一気に飲み干し「ああっ、うんめーな」と言ったのを今でも忘れることができません。そして「イエス様がいつも一緒だから・・・また来るよ」、、「勉、仏壇は処分してくれ」この日私たち家族が交わした会話が最後でした。1月4日午前1時ごろ旅立ちました。1月4日は私たちの結婚記念日でもあるのです。 家の玄関には、洗礼式の時の記念写真がかけられています。 中村 きく 97歳でした。 孫 中村 勉 より感謝を込めて 2004年6月30日 敬具 |